「おかあさん、トカ。」20021009

あたしのおかあさん。
おかあさんはたくさんいる。
最初のおかあさんは「茉莉」。
あたしに名前をつけてくれたひと。
あたしに名前の息吹を与えてくれました。
あたしは彼女に名前を呼ばれるたびに、
撫でられている気がする。
ぬくもりを感じる。

二番目のおかあさんは、
同級生のトモダチ。
あたしはたぶん彼女と彼女のママを、
ほんとうのおかあさんみたいに思ってた。
いまもそうじゃないって
笑われたらなんとも言えないけど、
昔とはやっぱり違うのよ。
いまは対等に友達だって思ってる。
えへ、でもやっぱり曖昧w
一番最初にあったとき、
「まるでおかあさんとこどもみたいね」
と言われたのがきっかけで
あたしはいつも彼女の背中を
追いかけては隠れてた。
彼女は勝気で面倒見がよいけれど、
今でも思うけれど精神年齢が15歳くらいの
小学生だった。
考え方もそうだし、ものの好みもそう。
よく学校帰りにだまされたりもした。
このままじゃだめだって、
自立を決意したのが小学校5年で
クラスが離れた時。
「最近あたしんとこに来ないね」
っていわれてぶっちゃけて色々言ったら、
「あたしお母さんに頼まれて一緒にいたのよ」
っていわれたのはすごくショックだった。
でも考えてみればそうだよね。
頼まれて一緒にいたんでも、
他の子みたいに嫌じゃなかった。
それをぶっちゃけてから、
あたしの中で彼女が徐々に
おかあさんから、友達になっていった。
中学は外に出るの、といったとき
同じくらい驚いてた。
それから「一緒の中学にいこう、」って
いわれた。
あたしは首を振った。
自立っていうのはこういうものかな・・と
どこかで感じた。
あたしと彼女はいまでも友達だよ。
彼女は現在声優の卵。
心から心を込めて、応援してるよ。

三番目のおかあさんは、
公文の先生。
「家出したら、
いつでもいらっしゃい。」と
あたしにいってくれたひと。
嬉しかった。
でも先生は、もう居ないの。
もう此処には居ないの。
居ないから、あたしは、
甘えてはいけないの。
もう無い帰る家をいつまでもねだってはいけないんだわ。
先生は、ドイツの娘さんのおうちへいって、
永住するというお話だったけれど、
ほんとうは何年も何年も昔、
ドイツにいってすぐに、
体調が悪くなって、帰国して、
それから亡くなったの。
あたしは知らなかった。
それを知らなかった。
先生は、もうどこにもいなかったの。
お墓の場所をきけなくて、
ただただ信じられなくて。
それからまた数年後、
町の広報誌に、「太平洋に散骨」という記事がでて、
先生はずっとおうちにいたことを知った。
そして、今度こそ今度こそ、
もう会えないことを知った。
先生は海になったのよ。
相模の海になったのよ。
電車からいつもいつも見える、
あの海が先生なの。

四番目のおかあさんは、
小学校二年生のときの、
あたしたちたんぽぽ組の、担任の先生。
先生は、あたしひとりだけじゃない、
たんぽぽ組みーんなのおかあさん。
先生が受け持った全ての組のおかあさん。
あたしたちは、
先生が日本で受け持った最後の組の
最後のこども。
先生は遠足で、
あたしの手をにぎってくれた。
ぎゅっと。
ぎゅっとにぎっていてくれた。
一緒に歩いた。
きれいな庭園を一緒に歩いた。
とても醜いあたしの、
あたしの手を触って、指や爪のかたちを
ほめてくれた。
誰も握らないあたしの手を。
先生は遠いミュンヘンというところへ
行ってしまったけれど、
手紙をくれた。
手紙に、「いつも思い出すのは、
遠足で、あなたと手をつないで歩いたことよ。
わたしに手をつないできてくれて
とても嬉しかったのよ。」
とかかれてあった。
いつも手紙にはそのことがかいてあった。
あたしはあのころよりオトナになって、
「担任の先生」の立場にたってみることが
最近よくある。
あたしは、いじめられっこで、
みんなの輪にはいれなくて、
いつもいつも泣いている、
「担任」という立場からだったら
とても困った子だったと思う。
それを思うと余計、
余計泣けてしょうがないの。
先生も嬉しかったんだ、って。
先生も嬉しかったんだって、
そう思うと救われる気がする。
抱きついてありがとうって言いたい。
抱きついて大好きって言いたい。

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