あの頃と変わらない、そらを探してるのあたし。

あの頃と変わらない。
そらを探してるのあたし。
教室の地べたを這いずって、必死に上を見上げても、
目に映るのは藁に粘土を混ぜたような黒い天井で、
そこはそらじゃないんだ。
あたしはいつもそらを探して泣いている。

自分のことを語るのはすきじゃない。
でも吐き出してしまおう。
人が聞いたらたいしたこともないことなんだ。
でもあたしにはこれが重くみしみしとする。
吐き出してしまったらラクになるかな。
また笑えるかな。
ちいさかった頃みたいに、笑えるかな。
純粋に。

おそらは青いと絵本にあるのに、
おそらは白いね、と言ったまだ古い家に住んでいた
2歳までのあたし。
それは初冬のどこまでも厚い雲がおおったそらだった。
一番最初のそらの印象。

教室の絨毯のにおい。
掃除機のにおい。掃除機の中を捨てて、
ガリガリと回して埃を掻きだす作業。
黙々と続く闇。透ける闇。
なにも考えてはいなかった。
考えてしまったらそれはあっけないものだから。
現実に引き戻されないように、
現実のそらの下で、
あたしの目にそらは映っていなかった。
あたしはこの教室の埃と同じ。

病弱なこどもだった。
元気な子は毎日当たり前のように学校へ行き、
当たり前のように騒ぎ、笑い、駆け回って、怒られて、
少年少女の図鑑みたいな生活をしてる。
あたしは彼らを羨ましいとはおもってなかった。
人付き合いが苦手だったからだ。
でも、病気も嫌いだった。
病院も点滴も注射も塗り薬も漢方薬も。
病院の待合室にこどもは居ない。
ただ黴たような、ひんやりとした空気の死臭の様な澱みの向こうに、
暗い黒い部屋がいくつも点在し、
微かな光の向こうに怖い顔の医者がいる。
小児科と掲げてはいるが、
強引につけたしたような印象だった。
看護婦は無言で無表情で、
チャッチャッと注射器を準備している。
あたしは刺されるのが嫌で身をよじって泣いた。
血管が細いので医者が一度で済まさないためだ。
何度も何度も刺しては抜き、
細いから突き破ってしまうと怒り口調で言い放ち、
最初は左腕、右腕、それからお尻、甲、親指・・・・
それらはいつも痣になって、
体中に紫や黄色の斑が点在することになった。
点滴も嫌いだった。
麻酔が効かない体質だった。
それもあるし、当時はまだこの病気のこどもが少なく、
医療も試行錯誤の段階で、
いろいろな薬を実験されたのだ。
点滴のたびに嘔吐を繰り返し、病院の寝台で考えていたのは
「あぁ、家でアニメがやってる時間なのに」
こういうと、貴女らしいわね、と友達は笑う気がするが。

40度を越す熱を出して水銀体温計を割ったことがある。
割った記憶そのものはないが、
周りが騒いでいたことは覚えている。
それからしばらく経って、オレンジ色の毛布に包まれて
知らない人がどやどや来て、搬送された。
搬送された病院は町を2つも越えた場所にあったのに
あっという間に着いてしまった。救急車ってすごいな。
しかし着いた途端に身ぐるみ全部剥がされて、
冷たい大きな体重計に乗せられたり、
身長を測られたりしたのにはまいった。
看護婦さんがかわるがわる入ってきては、
「パジャマがかわいいね」「ばんそうこうがかわいいね」と
頭を撫でて去っていく。
悪くないかも、なんてね。

あたしに、父親は居なかった。
それが、どんなものかも知らなかった。
死んでいるなら、救われたのかもしれない。
別れているのなら、まだよかったのかもしれない。
あたしはあたしの恐怖の元が何かわからず
ただ怯えて涙した。
「居ない」ということを初めてかなしいとおもったのは
恋人ができてからだった。
おとなになって、どうしていままたあの男に
苦しめられなくちゃいけないのだろう。
どこまであたしを困らせれば気が済む?

目を合わせていなくても、廊下ですれ違えば殴られた。
胸座を掴まれて、「なんだその目は!」と
歯を食いしばった血走った目で言われ、
「なにも」と目を逸らしてただ祈っても、
結果は同じ、壁に投げつけられて、息が詰まって、
お腹や背中を何度も蹴られ、
「親に向かってなんだその態度は!」と怒鳴られ、
それでもただひたすら神様神様神様神様、と
絨毯に涙をこぼして祈った。
涙を見られてはいけない。見られたら終わりだ。
祈ることさえもゆるされない。
泣いちゃだめだ。泣いちゃだめだ。
でも身体は正直だ。目の前の恐怖に涙が出る。

朝駅に着くと、
友達と友達のお父さんがホームでキスをする。
さも当然かのように。
キスはしなくても、当たり前にみんながもっているもの。
でもあたしには手に入らないもの。
友達はお父さんの話をよくする。
「大学はどこでね、ねえそっちのお父さんはどこでしょ?
どっちの大学がすき?どこの大学にいきたい?
あたしはねぇ、、」
ウン・・・、と興味なく生返事をしながら遠くを見てた。
あたしは彼のことを知りたいともおもわないし、
どうでもよかった。関わりあいたくなかった。
おとなになったら、どこか遠くへ、
あの男が知らないところへ、行きたかった。

お風呂に入るのが、
あるときから嫌いになった。
こどもの頃は、5歳半離れた兄と入っていた。
毎日お風呂で戦争ごっこをして騒いで遊んだ。
あるときから兄と入らなくなった。
兄はお年頃になったのだ。
もう妹と風呂に入るのは恥ずかしいというわけだ。
もう無邪気に遊ぼうとは言えない。断絶されたのだ。

ひとりでお風呂にはいりはじめてから、
それは恐怖にすりかわった。
扉に内側から鍵を掛けていても、彼は強引に入ってくる。
服を着ているときも、全裸の時もあった。
しかしそれは「娘と一緒にはいる」などという
優しいものではなかった。
最初は扉を激しく叩き、徐々に罵声がひどくなっていき、
最後にはにたにたしたいやらしい笑顔で、
浴室の扉を開けてはいってくる。
初めてのとき、怖くて「入ってこないで」と言ったけど、
聞き入れてもらえるはずもなく、
言葉は宙に舞うだけだ。
恐ろしさのあまり、水を掛けてしまったとき、しまったとおもったが
後の祭りだ。
彼は手がつけられないほど浴室で暴れ、
気が済むまで殴ったり蹴ったり首を締めたり、あるいは
口にシャワーの水をがぼがぼと注ぎ込まれることもあった。
息が出来ずにもがくと、
「もう逆らわないか、もう逆らわないか!」と言われる。
死にたくない。
生きるためには、妥協も必要なのだ。
たとえ、自分を殺すことになっても。
お風呂から上がり、ベッドにぐったりともぐりこむと、
第二ラウンドが始まる。
部屋に入ってくる。ベッドに入ってくる。
さっきとは違う、大人とは思えない、
甘ったれた声で。子供のように、あたしを触る。
抱っこをせがむ、子供のように、あたしに触る。
キ モ チ ガ ワ ル イ。
喉がカラカラに渇く。逃げ出そうとすると掴まれる。
逆らえば、どうなるかなんてわかりきってる。
あたしは無力なこどもなのだ。
神様なんかいない。
救えるのは自分だけ。あたしを守れるのはあたしだけ。
あたしはずっと、
ただ何も考えずにじっとしていた。
教室の掃除機の埃を掻きだす時みたいに。

そんな日の次の日曜日には漫画や童話をたくさん買ってくれる。
あたしの部屋には漫画がたくさんあって、
友達はあたしの部屋に遊びに来ては、
それを読んで帰る。
ゲームをするわけでもなく、会話をするでもなく、
ふたりで漫画を読みふける。
あたしにはそれが一番幸福なひとときで、
同時にとてもかなしかった。
漫画が増えていけば増えていくだけ、あたしは身体に何も感じなくなった。
男の子には人並みに憧れた。
恋愛感情も抱いた。でもそれだけ。
なにがしたいでもない。肉体に触れられても、
何も感じない。ドキドキもしない。それがかなしい。

あたしの家にいる、血の繋がっているソレを、
あたしは父親だとおもったことが無かったし、
きっとこれからも無いだろうとおもう。
あたしは生きるために、漫画で身体と心を売ったのだ。

母はあたしを見ない。
あたしを見ながらこう呼ぶの。それは呪われた名前。
あたしを見ながらこう呼ぶの。「チエコ」、と。
それはあの男の母親の名前だ。あたしの名前じゃない。
あたしの名前を呼んでよ、あたしが忘れちゃうまえに。
あたしの名前を呼んでよ、あたしが忘れないように。

あの男の母親もまた、死んではいない。
同じ敷地の、この家の裏に住んでいる。
顔は母が言うほど似ていないとおもうけれど、
血が繋がっているから少しは似ていても仕方が無い。

母の目は狂気を帯びている。
狂ったようにチエコ、チエコ、と名前を呼ぶ。
返事をしないと事態は悪くなるだけなので、
返事をすると、
「あらあんたのことじゃないわよ。でも同じだからいいか。
あははっあんたのおばあさんもあんたもおんなじ!
醜い穢れたおんななのよ、最低ね!」
あたしは黙って下を向く。
目を合わせたら面と向かって聞かなければいけないから。
これからもっともっとひどいことをいわれる。
それに耐えるには、
下を向いているのがいい。
「あんたは低脳だから何を言っても感じなくていいわね。
あんたがバカだからはっきり言ってやるけど、
あたしはあいつの血が流れていないの。他人なの。
いつでも別れられるけど、あんたがいるから別れないでいてやってるのよ。」
下を向いているのがいい。
泣いても気付かれないで済むから。
ばかにされるだけ。
思うつぼになるだけ。
相手が図に乗るだけ。
だから手を握り締めて待つんだ。
あの女が飽きるまで。飽きて何処かへ行ってしまうまで。
なにも考えないでいよう。
人形のように、どこか遠くをみつめていれば、
「あぁ、こいつに何を言っても無駄無駄。頭がわいてるんだもの!」
そういっていつか消え去る。
あたしがみつめるのは未来。
いつか来るかもしれない夢の世界。
あたしの名前を呼んでくれる人がいるところ。
あたしの話を真面目にきいてくれるひとのところ。
そんなひとはほんとうにいるんだろうか。
世界は広いのに、人類はあふれるほどいるのに、
あたしのそばにはだれもいない。

母は嘲笑う。
あの男があたしを殴ると嘲笑う。
髪の毛を掴まれてえびぞりにされて
見上げた母の顔は怖いくらい笑みを浮かべている。
「その男はあんたをママの代わりにしてるのよ!
あははざまぁみやがれ、あぁあたしじゃなくてよかった。
ママにできないこと、あんたにはできるものね!」
ああそうか、
この男は自分の母親に愛されたいんだ。
でも本人はそれに気がついてない。
これを「教育」だといってるけど、
ほんとうは、愛してほしいんだろうな、と思う。
でもこういう風に育ったから、
こうすれば相手が必ず従うと思ってる。
それこそが正しいと思ってる。

でも違う。あたしは違う。
あたしにはあたしの意思がある。
「あんたに文句を言う権利はないのよ。なぜわからないの?
あんたにはあの女とこの男の血がはいっているんだからね!」
「うちのかわいいなっちゃんは、小学生の頃この男に
首をしめられたの。おおかわいそう!絶対許さないわ!」
あたしは兄を憎くおもった。
たったの一度きり、殺されかけただけなのに、
母の愛情を受けている。あたしが求めても手に入れられないもの。
ずるい。ずるい。ずるい。
ああ、あたしが男なら!
男なら、母に愛して貰えただろうか。
男なら、兄と一緒にずっと遊べただろうか。
男なら、わからない父性愛に苦しめられずに済んだのだろうか。